10項目のリスト
鹿鳴館の貴婦人「大山捨松」の激動の人生【パート6 躍進編】
作成者: 日本人の9割が知らない歴史(@picolis_history)
- 【慈善活動】
- ・捨松はある時、有志共立東京病院(後の慈恵医大)を見学し、看護婦が不在であることに衝撃を受けた。
- ・留学中に甲種看護婦資格を取得していた捨松は、看護婦養成学校の必要性を、院長の高木兼寛男爵に提言したが、財政難で実現が難しい状態だった。
- ・1884年6月12日から3日間、日本初のチャリティバザー「鹿鳴館慈善会」を主催し、1万2000人の入場者と1万6000円の収益を記録し、この資金で日本初の看護婦学校が2年後に設立された。
- ・1887年、日本赤十字篤志婦人会の発起人となり、戦傷者の看護や包帯作りなどの活動に奔走し、アメリカの赤十字にも寄付金を送り、親日的なアメリカ世論を形成するのに貢献した。
- 【女学校の設立】
- ・留学から帰国後の夢は、女子のための学校設立と教職就任であったが、大山巌との結婚で直接教育に関わることはなくなったものの、女子教育への支援を続けた。
- ・1884年、伊藤博文の依頼で、華族女学校(後の学習院女子中高等科)の設立準備委員になり、理想とする学校設立に貢献しようとしたが、教育内容に失望した。
- ・1900年、津田梅子が津田塾大学を設立する際、捨松は瓜生繁子とともに全面的に支援し、梅子の渡米中には校長代理も務めた。
- ・捨松の夫、大山巌が1916年に亡くなり、1919年に津田梅子が病に倒れた際は、女子英学塾を取り仕切り、後任の新塾長を指名したが、体調を崩し、そのままスペイン風邪により58歳で亡くなった。
作成日: 2024年2月19日 更新日: 2024年2月19日