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鹿鳴館の貴婦人「大山捨松」の激動の人生【番外編】
作成者: 日本人の9割が知らない歴史(@picolis_history)
- 捨松と巌の結婚は、戦争で対立した会津人と薩摩人の間の婚姻であるため、親族からは難色を示され、結婚後は両家族とも親戚付き合いが絶えた。
- 捨松と巌はおしどり夫婦として知られていた。捨松は公の場でも巌を「イワオ」と呼び、その仲の良さが周囲に認知されていた。
- 捨松は先妻からの3人の娘と自身の二男一女、合わせて6人の子供を育て、社交界や慈善活動、女子教育にも積極的に関わりながら、大山家の資産運用も手掛けていた。
- 巌は日清日露戦争を通じて陸軍の代表的存在となり、総理候補とも言われたが、政治には興味を示さず、人望が厚く、晩年は内大臣として宮中での勤務の傍ら家族との時間を大切にした。
- 大山家の邸宅は巌の趣味でドイツの古城をモチーフにしており、西洋文化の影響を受けつつ、捨松は子どもたちが日本の風俗になじめるよう和室の子供部屋を設けた。
- 長女信子が結核で亡くなり、その悲劇は徳冨蘆花の小説『不如帰』でモデルにされ、一部の読者からは誤解を受けて捨松への誹謗中傷があったが、実際には捨松は献身的に看護し、娘たちからも愛されていた。
- 徳冨蘆花は、捨松を誤解させたことについて1919年、捨松が亡くなる直前に言及したが、それは時すでに遅しであった。
- 捨松と巌は栃木県西那須野の墓地で静かに眠っている。
作成日: 2024年2月20日 更新日: 2024年2月20日