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日本初の女性西洋画家「ラグーザ・玉」の人生
作成者: 日本人の9割が知らない歴史(@picolis_history)
- 【誕生と幼少期】
- ・1861年(文久3年)、江戸・芝新堀の清原家の次女として生まれる
- ・父は浄土宗の七大本山の一つ増上寺の行事を取り仕切る管理人
- ・2歳上の姉がいる
- ・幼くして本格的に日本画を学び、絵を描くことが大好きだった
- 【ラグーザとの出会いと師事】
- ・16歳の時、縁側で花鳥画を描いていると、着物に靴を履いた異国人ラグーザに声を掛けられる
- ・ラグーザが玉の絵筆を借り、生き生きとした人の顔を描く
- ・日本画とは異なる写実的な画法に目を見張る
- ・ラグーザが的確な批評とアドバイスをし、玉に新しい技法を教える
- ・後にラグーザが工部美術学校(現東京藝大)の教授であることが判明
- ・ラグーザは遠近法、陰影法、写生のアプローチ法など当時斬新な技法を教える
- ・ラグーザが集めた約2000点の古美術品の模写を玉に依頼、親交が深まる
- ・玉はラグーザの彫刻のモデルも務める
- 【結婚とイタリア渡航】
- ・周囲の祝福を受け、玉19歳、ラグーザ39歳で結婚
- ・2年後に工部美術学校が廃止となり、ラグーザが帰国を決意
- ・玉の姉夫婦も同行し、21歳の玉はイタリアへ向けて日本を発つ
- ・2ヶ月近くかけてラグーザの故郷シチリア島パレルモに到着
- 【パレルモでの生活と活動】
- ・パレルモの空と海の美しさに心を踊らせる
- ・自身の性格をコスモポリタン的と称し、どこにでも順応する自信があった
- ・パレルモ大学で美術を学び始める
- ・日本工芸の独創性に感銘を受けたラグーザが、イタリアの美術工芸発展のため、パレルモに「ラグーザオタマキヨハラ国立美術学院」を設立
- ・ラグーザが校長、玉は副校長と絵画科の教師を務める
- 【古美術品の模写と展覧会、寄付】
- ・ラグーザとなれそめの古美術品模写は船便小包110箱分にもなる
- ・これらをパレルモで開催された日本美術展覧会で披露
- ・1885年のコレラ流行の際、ラグーザが救護団を組織し、模写作品の一部を博物館に売却して資金にする
- ・玉も個人的に寄付を行い、夫婦で功労勲章を授与される
- 【イタリアでの評価と活躍】
- ・各地の美術展や博覧会で受賞し、高い評価を得る
- ・イタリア画壇の名花と謳われるが、その名声は日本には届かない
- 【家族と夫ラグーザとの生活】
- ・流産や姉夫婦の帰国などの悲しみがあったが、絵を描くことで乗り越える
- ・ラグーザの大きな愛が支えになっていた
- ・ラグーザは先生、父、夫、男性すべての存在だった
- 【晩年と帰国の試み 】
- ・66歳の時にラグーザが死去し、独り身になる
- ・ローマの日本大使館で帰国を相談するが「お前は日本人ではない」と侮辱され涙する
- ・日本との絶縁を決意する
- 【小説連載と帰国 】
- ・1931年から2年間、木村毅による小説「ラグーザお玉」が新聞連載され、玉が脚光を浴びる
- ・親族がシチリアまで迎えに来たため、51年ぶりに72歳で日本を訪問
- ・日本では国民的ヒロインとして歓迎される
- 【最期】
- ・日本語をすっかり忘れていたが、一日中絵を描くのが楽しみだった
- ・78歳で亡くなるまで、穏やかな晩年を過ごし絵筆を離さなかった
作成日: 2024年4月15日 更新日: 2024年4月15日
関連ページ: https://youtu.be/u_xO4nJc4S4