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ヘレン・ケラーより偉大な人「中村久子」の人生
作成者: 日本人の9割が知らない歴史(@picolis_history)
- 1897年(明治30年)、岐阜県大野郡高山町(現在の高山市)で、畳職人の家に長女として生まれる。長らく子宝に恵まれなかったこともあり、両親は大変喜んだ
- 2歳のときに左足の甲に霜焼けを負い、それが両手と右足にも起こり、高熱と手足が真黒に焼ける痛みに昼夜問わず耐え続けた
- 3歳のときに、この霜焼けが元となり特発性脱疽となった。四肢の末梢血管に閉塞をきたすこの難病のため、手足や指の虚血症状が起こる
- 手術すべきか何度も親族で話し合ったが、その間に左手首から先がポロリと崩れ落ち、その後右手首、左脛の中ほど、右かかとから先を切断し手足を失った
- 7歳のときに父が急逝し、10歳のときに弟は育児院に預けられてしまった
- 生活苦もあり、母は再婚したが、再婚先では障がいのある者は恥とされ、久子は2階の1室に閉じ込められてしまった
- ある日、母は途方にくれて久子と心中しようとさまよい歩いたが、久子の泣き声と温もりを感じて我に返った
- 不幸が続く久子を支えたのは、祖母と母であり、二人は厳しくも愛情をもって彼女を育てた
- 母は手足のない久子に着物を与え、ほどいてみなさいと言い、自分で考えろと助言も与えず「できないことはありません」と言い聞かせた
- このお陰で久子は帯結び以外は全て一人でできるようになり、筆記や編み物をこなせるまでになった
- 1916年(大正5年)、当時障がい者が自立するには見世物芸人として働くしかなく、20歳になった久子は興業の道へ進んだ
- 「だるま娘」の看板で、両手のない体での裁縫・刺繍・編み物・短冊書きなどの芸を披露し人気を博した
- 日本全国にとどまらず、朝鮮、台湾、満州にまで巡業に出た
- 自分の治療のために母が背負った借金を全額返済した
- 23歳のとき、生き別れの13年になる弟の危篤の電報が届いたが、冷酷な興行師に拘束され弟の葬儀に参列できなかった
- 24歳で結婚するも、長女が生まれた1年後に夫が腸結核で死去。同年に祖母も亡くした
- 2人目の夫も次女が生まれて1年後に、急性脳膜炎でまたもや亡くなった
- 29歳で3度目の結婚をするも、この夫は酒と賭博に耽り、三女が10か月で麻疹により死去した
- この夫は離婚に際し1500円の手切れ金を要求し、情け容赦なく金をもぎ取って去っていった
- 36歳で最後の結婚を機に、45歳頃から落ち着いた生活へ
- 1929年(昭和4年)、三女を亡くした頃、座古愛子の存在に目覚め、母への恨みを改めた
- 1937年(昭和12年)、41歳で日比谷公会堂でヘレン・ケラーと出会い、母の愛に気づき初めて泣いた
- 1942年(昭和17年)、46歳で芸人生活から身を引き求道の道へ進んだ(芸人生活は26年間)
- 50歳頃から執筆、講演、慰問活動を始め、自身の生い立ちと障がいについて語った
- 全国を回る中で「無手無足は仏より賜った身体」「生かされている喜びと尊さ」など人生観を説いた
- 54歳で高山身体障害者福祉協会の初代会長に就任
- 65歳で厚生大臣賞を受賞
- 1968年(昭和43年)、72歳で高山市の自宅で死去。遺言により遺体は医学に献体された
- 晩年の講演で「人生に絶望なし。いかなる人生にも決して絶望はない」と残した
作成日: 2024年5月7日 更新日: 2024年5月7日
関連ページ: https://youtu.be/MSzO3Tk-0NE