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ソ連に亡命したトップ女優「岡田嘉子」の生涯
作成者: 日本人の9割が知らない歴史(@picolis_history)
- 1902年(明治35年)4月21日
- ・広島県広島市細工町に新聞記者の父と福岡県出身の母の間に生まれる。
- ・母方の祖父がオランダ人であり、嘉子はクォーターである。
- 幼少期
- ・父の職業柄や放浪癖により、小学校を8回転校する。
- ・父はリベラルな思想を持ち、学校での天皇への忠誠を誓う行事に反対し、嘉子を学校に行かせないこともあった。
- 1915年(大正4年)
- ・女子美術学校(現在の東京女子美術大学)西洋画科に13歳で入学。
- 1917年(大正6年)
- ・北海道小樽の「北門日報」に父が招かれ、嘉子も女子美術学校を卒業後、小樽に移住。
- ・翌年、15歳で同紙の記者として働き始める。
- 1919年(大正8年)
- ・東京に上京し、劇作家中村吉蔵の内弟子となるが、新芸術座がすぐに解散。
- 1921年(大正10年)
- ・舞台『出家とその弟子』で新劇のスター女優として脚光を浴びる。
- ・この年、学生服部義治との間に男児を出産し、家族の籍に入れられる。
- 1923年(大正12年)
- ・倉田百三の戯曲を基にした『髑髏の舞』で映画デビュー。
- ・同年、関東大震災で日活向島が閉鎖し、嘉子は多額の借金を抱える。
- 1925年(大正14年)
- ・映画『街の手品師』に出演し、演技が高評価を受ける。
- 1927年(昭和2年)
- ・映画『椿姫』の撮影中に美男俳優竹内良一と恋に落ち、山田隆弥との愛人関係を終わらせ、竹内と駆け落ち。
- ・この事件で日活を解雇される。
- 1930年(昭和5年)
- ・トーキー映画に目をつけ、竹内と共にプロダクションを設立し、数々の映画を制作。
- ・日本舞踊の名取を許され、「藤蔭嘉子」を名乗る。
- 1932年(昭和7年)
- ・松竹蒲田撮影所と契約するが、スター女優としての輝きを失い、舞台に転向。
- ・杉本良吉と激しい恋に落ち、彼と共にソ連へ亡命を決意。
- 1937年(昭和12年)12月27日
- ・樺太を経て、ソ連へ亡命。翌年、ソ連当局にスパイ容疑で捕らえられる。
- 1947年(昭和22年)
- ・釈放後、日本には帰国せず、モスクワ放送局で日本語放送のアナウンサーとして活動。
- 1972年(昭和47年)
- ・35年ぶりに夫の遺骨を抱いて帰国し、映画やトーク番組にも出演。
- 1986年(昭和61年)
- ・ソ連へ戻り、再び日本の芸能界を引退。
- 1992年(平成4年)
- ・モスクワで89歳で死去。
作成日: 2024年9月12日 更新日: 2024年9月12日
関連ページ: https://youtu.be/plIDFvoboYg